長きに渡って連載してきた鄭成功の物語も、ようやく終えることができたが、余りに長いので記憶が不鮮明になったところもあったかもしれない。ここで彼の後半生をも一度振り返ってみよう。
1646年11月30日、鄭成功の母(田川氏)は、福州で清軍の強姦に遭い、その後自殺した。南京でその消息に触れ、悲しみのあげく成功は孔子廟に馳せ参じ、儒服を焼き、天を拝んで、復讐の誓いを立てたという。
時に成功23歳のことであった。
成功は今まで軍隊を指揮した経験は無く、一介の書生に、このような動乱の最中に何が出来ようと思わるかもしれない。だがその「無経験」が逆に幸いし、軍事
経験者なら無謀と思えるようなことも、その純粋さから行うことができた。
彼は何も恐れず、只一人生き残った弟・鄭世襲と18人の随員を連れて、故郷福建のアモイ近くの南安県安平鎮にまず根を下ろした。
そこで父・芝龍のかつての部下たちをかき集めると、たちまち数千人が集まった。日本からも鄭家の
資金を送らせて軍の整備に当たらせ、まずコロンス島(アモイの向かい小島)、同安(アモイの対岸)並びに泉州港を占領した。
日本の幕府にも応援を要請したが、前述の述べた通りに拒否された。幕府は鎖国体制を強めつつあり、外国の争いには無干渉の方針を持っていたからである。成功は他国の援助は当てにならずと悟り、自立自強の道を着々と切り開いていった。
芝龍がいなくなった後、鄭家の親族とかつての武将たちは、南福建の沿岸で、群雄割拠さながら小規模の各拠点に点在していた。これを成功は叔父・鄭鴻逵や、収攬した甘W、施郎、林習山などの優れた若い人材の力を借りて、逐次にまとめあげていった。
さらに金門、アモイ一帯の鄭家水軍総帥である一族の長老・鄭彩に助力を求ると、鄭彩は成功の人物を見込んで、こう述べた。
「私はもう年を取りすぎた。かねてから我が親族を観察してきたが、やはり私の跡を継げるのは、大木(成功)に限る」。そして内外に鄭成功の跡取りを宣言し、兵士四万と戦艦100隻を成功に預けた。
これにより、鄭成功の軍団は、俄かに金門・アモイの根拠地を所有する大戦闘集団に成長したのである。
翌1647年の暮れ、広東の肇慶に明桂王が擁立されて、「永暦」と国号を改めた。これを聞いて、成功は早速使者を出して朝拝し、自ら正式に「永暦」の年号を採用した。そしてここから鄭軍の反撃が始まるのである。
posted by leprechaun at 11:00|
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鄭成功
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