2008年06月14日

7)鄭成功と江戸幕府

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福州といえば、鄭軍の根拠地の一つである。根拠地を落とされた敗色濃厚な鄭成功に加担しても意味がない。そう考えて幕府は援軍を送ることを中止した。また江戸幕府には、明朝に加担して清朝の恨みを買うのには、些か抵抗もあった。

それには過去の因縁が関連していると言う。

遡って、秀吉盛んなりし日、日本軍は明軍と朝鮮半島で激闘を繰り返していた。そのとき、清(当時は後金)の首領.ヌルハチは再三明朝に要請し、清八旗・三万の兵士を明軍の一翼として出撃して、日本軍との交戦を願ったが、許可されなかった。

もっとも徳川秀忠がその内情を知るよしもなく、二代将軍はただ清が、日本を思いはばかって出撃をとりやめた、と考えていたようである。

またヌルハチの子ホンタイジ(清朝初代皇帝)は、遠攻近交の政策を取ったために、隣国朝鮮は徹底的に攻撃しても、日本に対しては融和政策を取っていた。その結果として、日本政府は清朝に対して敵対意識はないところか、むしろ好感さえ持っていた節さえある。

たとえ日本人を母とする鄭成功でも、所詮は明朝の遺民であり、明朝の片棒を担いで、清朝の恨みを買う必要はなかったのが、援助を控えた主な原因と思われる。また、当時の江戸幕府は鎖国政策を固めつつあり、国力を浪費する海外出兵は選択肢になかったのも原因だろう。

公式な援助を断られた鄭成功は、裏から手を回すことを考えるに到る。


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6)中国刀と日本刀

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ここからはしばらく、鄭成功が珍重した日本刀剣や兜鎧等を含む、鍛造鉄器について解説してみよう。

前述したように、鄭成功の「鉄人部隊」が所有する兜鎧や刀剣の大部分は、日本製あるいは日本製をまねて造った鍛造品であった。

明末中国の刀剣は鋳造がほとんどである。炉内で溶けた鉄湯を型に流し込む鋳造品は、製造が簡単で、多量生産も可能なため、大いに流布した。しかし圧延装置も回転鋳造の技術もない当時では、薄くて良質な鉄片は作れず、中国刀はぶ厚く、切れ味も鈍かった。

日本刀は、「折れず、曲がらず、よく切れる」の三大特色を持つが、それは鉄片を叩くこと(=鍛造)により、鉄結晶が細密化し、かつ方向が揃えられ、緊密になるからである。

古代中国でも、同様に鍛造剣が造られていたのだが、鋳造技術が進歩してくると、より大量生産できる鋳造剣に取って代わられてしまった。中国刀の代表格ともいえる朴刀、青龍刀は、いずれも鋳造剣である。

一方、日本では鋳造技術の導入が遅れたため、刀剣は長年にわたって鍛造でつくられた。しかしそれが幸いし、コツコツ叩き上げる日本刀の優秀性は、明代には中国にまで知られる存在となっていたのである。

鄭成功は帰郷後、たびたび日本刀具の入手方法を探っていたが、なかなか埒があかなかった。彼は徳川幕府に、救援部隊3千と鎧兜、弓矢等の武器を要請し、徳川秀忠もそれに応じて数度に渡り幕議を開いた。しかしその最中、長崎から飛報がやってくる。福建・福州が陥落したとの知らせである。


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5)鉄人部隊の装備

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その手には日本に委託鍛造した特殊な長刀を装備していたが、これは清軍騎兵の馬脚を切るのが主な目的であった。日本に委託したのは、中国刀は切れ味が悪く、馬脚切断には向いていなかったからである。その点、日本刀は鋭利だったし、島原の乱も終わって太平が続き、不要になった刀剣・刀工も多かったからという。

鎧そのものは槍や刀にはもちろん傷つけられないし、兜や心臓部分には、鉄砲の弾丸や砲弾の破片でも容易に貫通しないように、鍛造された鉄板で緊密に覆われていたために、防御は極めて強固であった。

優秀な防御と、鋭利な長刀。この二つの武器が、強力な野戦部隊を作り上げたのである。

また、オランダ国立図書館の文献には、次のような記載も残っている。

「----これら(鄭成功軍を指す)の兵士は三種の武器を所有する。一部隊は弓矢を背負い、左手に盾、右手に重い剣を持つ。また別の一部隊は両手に蛮刀を付けた長い棍棒(=長刀のこと)を持ち、両腕と足以外には全身鉄甲で保護され、上身は魚鱗のような鉄片に覆われている-----盾を以って身を援護しながら敵陣中へ勇猛果敢に突進し、たとえ仲間が横で倒れても、狂犬のように暴れまわって敵陣を崩すまで後を振り向かない極めて凶暴な軍隊であった-----」.

ここで述べられている「盾」とは、藤の木で作った「藤盾」で(藤牌部隊のこと。後に詳述する)、重い剣とは「雲南斬馬刀」と称して、刃部分は主に日本から輸入か技術移転で造ったものと言われている。

ここに鄭成功は、漳州の大激戦、北伐、台湾の獲得戦、その他幾多もの激戦の主戦力となる精鋭部隊を手に入れたのである。

なお後日のことになるが、康熙帝は投降した鄭軍を、黒龍江近くの辺境に移動させて、帝政ロシア軍と戦わせた。この鉄人部隊、およびに藤牌部隊の見事な活躍ぶりを見せ、ロシア人は勿論のこと、当時の世界の人々をも驚かせたのである。


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2008年06月13日

4)鉄人部隊の創設

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その席上で、耳目をひく一つの報告があった。去年の護国嶺の戦役で、鄭軍は正三旗の筆頭武将・河格商(満人)を倒したのだが、彼の身につけていた鎧や兜等を点検すると、驚いたことに全身のほとんどが鉄で纏われていたと言う。

この報に接した成功も、「自分が幼児時に見た日本の武士達も、鉄で纏われた重装備の騎士は、勇猛果敢に見えた」という話を紹介して、「我が軍でも、このような鉄に纏われた『鉄人部隊』を創設したら、清軍の重装騎馬部隊に対抗できるかもしれない」、と提案した。

しかし言うは易く、行う難し、騎兵が鉄の鎧をまとうことができるのは、馬に跨って自分は動く必要はないからである。騎兵と同様に30斤(=20キロ弱)もある鉄の重装備を、一人の兵士に架せられて作戦行動を取るのは到底無理と、諸将は異論を唱えた。

だが、鄭軍きっての勇将・甘W(後の北伐・総司令官)が次のような提案をした。「兵士に平素から両
足腿にそれなりの重さの砂袋を縛り付けて訓練して、慣れさせたらどうか」。この発言に鄭成功もなるほどと思い、早速実行に移した。

鉄面を被り、鉄衣を纏った鉄人部隊を最初は5千人組織し、訓練させてみると、思いのほかうまく行ったので、後には一万人規模に拡大した。徴募した兵員の中には、日本からの浪人も混じっていたという。

(上の画像はオランダ国立図書館収蔵のものだが、後に鄭軍と対立したオランダは、鉄人部隊の画像を多数残した。)


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3)清軍との対立

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時は、清軍が呉三桂の引導で山海関から入関し、中国本土に乱入、至る所敵なしの絶頂期である。

清軍は出身部族をもとに四旗に分かれ、各旗はそれぞれ正、[金+襄]の二つがあったので、一般には「八旗」と呼ばれる八部隊に分かれてい
た。初期の頃は満人のみの組織であったが、後に投降した漢人からなる「漢八旗」を設立して、兵力の不足を補っていた。

占領地区が拡大につれて、緑営(清の入関以前に帰属した漢人の部隊)や雑兵集団も加わったが、特に先遣攻撃部隊である、満人の正三旗 ― 正黄、正紅、正白旗の騎馬部隊 ― は極めて獰猛・勇敢、精鋭中の精鋭と言われ、給金も一般の部隊よりも極めて高かったし、運送、武器等の装備も特別に補強されていた。

また機動力も優れているので、迅速に目的地に急行して敵を蹴散らして殲滅する。鄭軍はこれをどうすることも出来ず、大変恐れていた。元来が海賊でしかない鄭軍は烏合の衆で、清軍に連戦連敗、各個撃破される所だったのである。

特に鄭芝龍が下ったあと、頭目を失った鄭軍は各部隊が勝手な行動をとる有様で、軍隊としての呈をなしていなかった。だが、幸いにして鄭成功の帰郷で鄭軍は指揮系統が一本化され、次第に戦力が強化されることになる。

成功は万暦帝の孫である朱由榔をかついで永歴帝とし、これを奉じて抗戦を続け、1658年には念願の北伐軍を組織するまでなったが、そこには大きな懸念があった。

それは鄭軍には、漢、満八旗に対抗するだけの戦力はもちろん無かったし、歴戦の雄である清朝の近衛部隊=正三旗には、同兵力でも敵わないと言うことであった。

なるほど、鄭軍は小規模なゲリラ的戦闘や、海戦ではたびたび勝利をおさめた。だが本格的な陸戦では正三旗には敵しえず、散々苦杯を舐めさせられていたのである。

そこで鄭成功は1658年3月、思明で(廈門(アモイ)の郊外の地。「明」朝を「思」って名づけた地名である)、諸将を集めて軍議を開き、方策を練ることにした。


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2)混乱の時代

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福松(鄭成功)は1644年に成人するが、この年、李自成が北京の崇禎帝を自殺させ、明朝は滅亡。その李自成も清軍に滅ぼされるという、混沌と混乱の時代が幕を開けた。

この混乱に乗じ、鄭芝龍は唐王・朱聿鍵を擁立。隆武帝として政権を開き、清軍と対立することになる。

そして息子を隆武帝に拝謁させるが、帝は福松の偉丈な風貌に驚き、彼の背中を擦すりながら、「惜無一女配卿、卿当尽忠吾家、無相忘也」(=朕に娘がいればお前に娶らせるのだが、残念だ。我が家のために忠誠を尽くしてくれ、お互い忘れまいぞ)と言って珍重した。

そして45年には明皇帝の姓である「朱」と、名「成功」を授かり、征討大将軍印と尚方寶剣を賜った。後の人が、彼のことを「鄭成功」、「国姓爺(Koxinga:クォシンヤ)」と呼ぶようになった所以である。

しかしその後、鄭家をたて続けに不運が襲うことになる。まず,鄭氏授封の翌46年、隆武帝は北伐を敢行するも大敗し、隆武帝自身も殺される。

これを見た鄭芝龍は清朝に投降する決意を固めるが、息子はこれに苦諫。清は投降者を冷遇すると反対したのだが、父は聞く耳をもたずに投降した。根っからの商人である父には明朝への忠誠心は乏しく、利が清朝にあると見るや、さっさと旗色を変えたのである。

この父とは逆に、成功は反清の志を固めた。

それには、母の死が絡んでいた。その年の暮れ、母は福州にいたが、市街に乱入して来た清軍に強姦され自殺したという。消息を聞いた成功は憤怒の末、抗清復明を誓い、故郷の福建に戻り、廈門を根拠地として、徹底抗戦の準備を始めたのである。


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2008年06月12日

1)鄭成功の生い立ち

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さて、初めに鄭成功の生い立ちを簡単に紹介しよう。

鄭成功の父の名は鄭芝龍。福建省泉州出身の海商・海賊であるが、時には明朝の招聘で明官になり、時には明に離反して海商や海賊になった。

彼は九州・平戸を根拠地の一つに身を寄せた時は、徳川家康が華人に対しての融和政策を取った時期でもあったので幕府からも優遇されていた。そしてそこで平戸藩士田川七左衛門松蔭の一人娘・松を妻にしていた。

やがて松は一子をなし、福松(帰国後に”森”と変えた)と名づけられた。後の鄭成功である(1624年)

福松は母のもとで育てられ、7歳(1631年)の時、初めて父のいる福建・泉州へ「帰国」することになった。しかし当時 、江戸幕府は婦女の出国を許さなかったので、母の松は同行せず、福松は単独で泉州へ到着した。

そこで福松は勉学を修め、童試の秀才を受けて合格し、なおその後に廩膳生の資格も得た。童試とは科挙の予備試験で、これに受からな>いと科挙は受験できなかった。また童試の成績が良かったものは、政府から奨学金が与えられたが、その学生を「廩膳生」と呼んだ。 つまり福松は優れた成績で、科
挙の第一段階を突破した、のである。

福松は、後に文武両全の優れた才能を開花させるが、それは当代一流の文学家である銭謙益に文章を学び、また元海賊であった父・鄭芝龍に軍事を学ぶという恵まれた環境によころが大きい。

その後、南京人大学(役所)にて勤めしながら、高官になる進士の科挙を準備していた矢先に、事件は起こった。



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中国茶の世界〜黒茶〜

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黒茶とは、緑茶を蒸して型で固めた後発酵茶です。文献上に初めて現れたのは北宋時代(1074)で、緑茶と同様に歴史の古いお茶です。プーアル茶などが有名です。

タンニンの多い大葉種で作られるためそのままでは飲みにくく、放置してタンニンを減少させたものが、このお茶の始まりであると言われています。つまり放置している間に自然に酵母菌がついて後発酵したお茶なのですが、近年故意に菌を付けて黒茶を製造していることから、自然発酵のものを「生茶」、人為的に菌発酵(握堆)させたものを「熟茶」と呼んでいます。

黒茶には、固形にされたものが少なくありません。円盤型にされたお茶を「餅茶」、お碗型のようなものを「沱茶」、レンガのような形のものを「磚茶」などと呼びます。これはモンゴルなど遠隔地への輸送がしやすいようにしたためです。

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中国茶の世界〜青茶〜

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烏龍茶を代表格とする、半発酵茶(不完全発酵茶)が青茶です。清代(1855〜)に製法が確立され、緑茶の「鮮爽慈味」と、紅茶の「濃厚香気」を併せ持つ、華南地方(福建省・広東省・台湾)を中心に生産されるお茶です。

華南出身が多い華僑が好むことから、青茶が日本を始め、世界に広まったといわれています。

半発酵といってもその幅は広く、8%程度(包種茶)から80%(紅烏龍)程度まで幅があります。そのため味や香りのバリエーションも豊かで、発酵度が高くなるにつれて、香りや味も淡いものから芳醇なものへと変化します。

青茶の有名な生産地は、福建省北部の武夷山(武夷岩茶)、福建省南部の安溪(鉄観音、黄金桂など)、広東省北部(鳳凰単叢、嶺頭単叢など)、台湾(凍頂烏龍茶、高山茶、木柵鉄観音、白毫烏龍)です。

代表的なブランドとしては鉄観音、武夷岩茶、東方美人、高山茶が有名です。

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中国茶の世界〜黄茶〜

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黄茶は日本ではあまり知られていない、軽度の後発酵茶です。古代からあるとされていますが、確認されている最古の記録は明代(1571)のものです。18世紀には製法が完成され、湖南省の洞庭湖にある君山島で採れる君山銀針が最も有名です。

性質は「緑茶」と「黒茶」の中間で、どちらかというと「緑茶」のほうに近い位置にあり、「黄湯黄葉」が特色とされています。

使用する部分により、芽だけを使った「黄芽茶」(君山銀針、蒙頂黄芽など)、若葉でつくる「黄小茶」(北港毛尖など)、少し大きくなった硬い葉を用いる「黄大茶」(霍山黄大茶など)の3つに分類されます。

製造工程が他のお茶とは異なり、「悶黄(もんおう)」という湿った茶葉を放置し意図的に軽発酵させる工程が加わっています。

半分強の水分を乾燥させた後、茶葉を積み重ね、紙や湿った布をかぶせて高温多湿の場所に放置します。それによって、茶葉は、酸化発酵ではなく、酵母菌の作用で軽く発酵(「後発酵」)します。

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