台湾館

2008年09月10日

55) 鄭成功というひと4

鄭水軍の主力は、福船と称する3層の大船であり、その他に哨船、鳥船、蒼船、大砲船などがあった。船は大部分は中国式−ジャンク−であったが、洋式のガレオン戦艦も含まれていた。

成功は常に重兵を用いて作戦行動を起こし、使用する戦法も独特に編み出した戦術を活用した。例えば五梅花戦法(五艘の戦艦を一単位する水戦術)は彼が自ら創出したものである。

とはいえ必ずしも型に嵌ったものではなく、地勢や状況に応じて変化し、柔軟に対応したということも、付け加えておこう。

金門、アモイの外囲戦を含めて58度の攻防戦、そのうち特に鄭軍が主導的に起した41回の侵攻作戦は熾烈極まるものであった。結果は34勝7敗という好成績だったが、それは南海の一角、退けば死を意味する状況下において、ただ前へ進んで戦う以外には道が無かったからかもしれない。

成功の一生には攻防戦のない月日はないと言えるほど、獅子奮戦の人生であった。正に諸葛孔明の北征と同様に、侵攻は最良の防御という心得かもしれない。だがそれは彼の健康を蝕み、30代にしての早逝につながったように思われてならない。
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2008年09月08日

54) 鄭成功というひと3

次に、軍政を見てみよう。

鄭軍は軍事と政治の両集団に分けられている。一つは野戦部隊、もう一つは保安部隊である。

野戦部隊は上から提督、軍、衛、鎮の階級になっている。一方、保安部隊の階級は特に規定していないようで、例えば「忠勇候左鎮」のような官位が、その都度命名されていた。

鄭軍は基本的には野戦軍で、長く占領地に留まることが無かったせいか、根拠地の一角地区以外には、常設の文官は少ない。多分、軍関係者がそのまま占領地の治世者になったものと思われる。(子・鄭経の東寧王国時代では、文官も増えるが)

一軍の統帥者は提督であり、必要あれば副提督も設けていた。その下には原則として、左、右、前、後、中の五鎮があり、鎮以下には営、翼、司、班、兵の各組織が段階的に続く。

時と場合によっては、鉄人部隊や藤牌部隊等も加わり、洋銃を装備した黒人傭兵部隊も混成部隊として編入することもしばしばあった。例えば父・鄭芝龍は500名の黒人部隊を引き連れて福州に入り、清軍に降伏した。また、子・鄭経も多くの黒人傭兵を雇ったという記録が残っている。

この黒人がどこから来たかは不明だが、アフリカの黒人だけでなく、パプアの原住民や南インド人も含まれて板ようだ。当時のインドネシア香料貿易の中心地で、労働力としてだけでなく、傭兵としても彼らは利用されていた。

ちなみに日本人も、東南アジアでは傭兵として広く使われていた。戦国が終わり、用済みとなった浪人のうち、少なからぬ数は海外に渡ったのである。

前出のアンボン事件にも日本人傭兵は関係していたが、中でも有名なのはシャム王国で活躍した「山田長政」だろう。彼は言うなれば傭兵団の親玉で、当時のシャムでは傭兵団が大きな発言力を持っていたために、時期国王まで左右するほどの実力者になったのである。
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2008年09月06日

53) 鄭成功というひと2

さて、成功の軍を統括する手法について、話を移そう。北伐や対オランダ戦は別にして、1649年から1661年の12年間に、成功は清軍の金門、アモイなどの侵攻で相対した41回の戦闘中、陸上戦闘は34勝7敗で、水軍は全勝を治めた。

清水軍は14回攻撃を加えたが、ことごとく鄭水軍に完敗した。清朝始祖・ヌルハチの建国以来、清軍は一世紀近くに渡ってほぼ連戦連勝であった。その獰猛な清軍をさんざん打ち負かしたのは、空前絶後とも言われている。

41度の大会戦は全て自ら総指揮を取り、7度も危険を冒してまで、陣中に留まって指揮を取ったという記録が残っている。このような多くの戦闘を勝ち抜いた秘訣は、軍の統括の仕方が厳しく、かつ優れていたからだろう。次のような記録が残っている。

自分の性格からか、受けた儒教教育からか、あるいは強大な敵の軋轢からか、鄭成功はとにかく軍律や治世については厳しかったという。

戦いに臆した者、汚職をした者は容赦なく斬首、場合によっては一族にまで罪は咎められた。その一方、功労者には大々的に奨励や抜擢を行うのを怠らなかった。

また、抗争的反抗を行った城塞には、陥落後、常に虐殺を行った。

12年間の作戦で臆したり、敗戦したりして処刑された将校は75名に上り、降格された者は9名に上る。徹底抗戦し、老幼男女問わず虐殺された城は8ヶ所もあった。なお6件の汚職者は全員誅殺された。

一方で抜擢、奨励された者は300余人に対し、降格左遷された者は僅か30余人であった。時と場合によっては、飛び級で昇進させ、大々的に賞金も分け与えた。

このような信賞必罰、かつ公平無私な統括によって、将兵は一丸となって戦った。30数名の武将を失いはしたが、金門、アモイという弾丸にも似た矮小な土地で、清軍の絶えずの侵攻にも拘わらず10数年も持ちこたえたのは、成功の独特の軍の統括が主な原因かもしれない。

鄭軍は命令なしには、臆病者でも単独には退けず、勇者も単独では進まず、一進一退は常に命令に従っていた。つまり兵士らが一心同体で作戦行動を取ったのが、常勝の主な原因と多くの歴史家は分析している。
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2008年09月04日

52) 鄭成功というひと1

長きに渡って連載してきた鄭成功の物語も、ようやく終えることができたが、余りに長いので記憶が不鮮明になったところもあったかもしれない。ここで彼の後半生をも一度振り返ってみよう。

1646年11月30日、鄭成功の母(田川氏)は、福州で清軍の強姦に遭い、その後自殺した。南京でその消息に触れ、悲しみのあげく成功は孔子廟に馳せ参じ、儒服を焼き、天を拝んで、復讐の誓いを立てたという。

時に成功23歳のことであった。

成功は今まで軍隊を指揮した経験は無く、一介の書生に、このような動乱の最中に何が出来ようと思わるかもしれない。だがその「無経験」が逆に幸いし、軍事経験者なら無謀と思えるようなことも、その純粋さから行うことができた。

彼は何も恐れず、只一人生き残った弟・鄭世襲と18人の随員を連れて、故郷福建のアモイ近くの南安県安平鎮にまず根を下ろした。

そこで父・芝龍のかつての部下たちをかき集めると、たちまち数千人が集まった。日本からも鄭家の資金を送らせて軍の整備に当たらせ、まずコロンス島(アモイの向かい小島)、同安(アモイの対岸)並びに泉州港を占領した。

日本の幕府にも応援を要請したが、前述の述べた通りに拒否された。幕府は鎖国体制を強めつつあり、外国の争いには無干渉の方針を持っていたからである。成功は他国の援助は当てにならずと悟り、自立自強の道を着々と切り開いていった。

芝龍がいなくなった後、鄭家の親族とかつての武将たちは、南福建の沿岸で、群雄割拠さながら小規模の各拠点に点在していた。これを成功は叔父・鄭鴻逵や、収攬した甘W、施郎、林習山などの優れた若い人材の力を借りて、逐次にまとめあげていった。

さらに金門、アモイ一帯の鄭家水軍総帥である一族の長老・鄭彩に助力を求ると、鄭彩は成功の人物を見込んで、こう述べた。

「私はもう年を取りすぎた。かねてから我が親族を観察してきたが、やはり私の跡を継げるのは、大木(成功)に限る」。そして内外に鄭成功の跡取りを宣言し、兵士四万と戦艦100隻を成功に預けた。

これにより、鄭成功の軍団は、俄かに金門・アモイの根拠地を所有する大戦闘集団に成長したのである。

翌1647年の暮れ、広東の肇慶に明桂王が擁立されて、「永暦」と国号を改めた。これを聞いて、成功は早速使者を出して朝拝し、自ら正式に「永暦」の年号を採用した。そしてここから鄭軍の反撃が始まるのである。
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2008年09月02日

51) 台湾占領22(台湾攻略12)

その機を逃がさず、翌26日、鄭軍は投降兵士Radysを通じて、再度投降を呼びかけた。

城内では評議会を数度開いて議論したが、結論は得ず、Coyettに一任することになった。Coyettは城内の生命、財産の保全を条件に投降することに決めて、その日の午後2時に投降書を鄭軍に届けた。

鄭成功はそれを受け入れ、ようやく9ヶ月に渡る攻防戦は幕を閉じた。この戦役でオランダ側は1600名の兵士を亡くし、47万1500・Florijin(オランダ通貨)を鄭軍に収めた。これはゼーランジャ城内で、オランダ東インド会社が保有していた全資産であった。

成功はオランダ側に対し私的生命、財産の保証を約束し、理性的かつ着実に約束を果たした。その態度には大人の風格さえあったという。そして1662年2月9日、オランダ側2千人はゼランジャ城を後にして去った。

Coyett長官は台湾統治の象徴である城の鍵を成功に渡し、ここに1624年以来38年間のオランダ台湾統治は終焉を迎えた。

それを見届けるかのように、この年の暮れ、成功は台湾で逝去した。過労であったとも、マラリアであったとも言われる。

オランダの台湾統治開始の年1624年に成功は生まれ、統治終焉の1662年に亡くなったのは、偶然ではあるが、偶然以上の何かを感じさせてならない。
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2008年08月31日

50) 台湾占領21(台湾攻略11)

翌1662年1月25日、ゼランジャ城と大員に駐屯していた鄭軍の間に、大規模な砲撃戦が始まった。
(大員:現・台南市街地。かつては大員(タイワン)と呼ばれる原住民が住んでいた)

交戦前、オランダ側は鄭軍が最新鋭の洋砲を装備しているとは、想像だにしていなかった。オランダ軍が今まで戦った原住民や反乱軍には、そのような装備はほぼ皆無だったからである。

だが成功は叔父・鄭泰が管理する通商網と、父から譲り受けた莫大な資金を使い、多くの優れた様式武器、弾薬を、英国などから購入していた。特に大砲は、内筒を鍛鉄から特殊鋼に変えたこともあって、遠射程かつ精密砲撃が可能だったと言われている。

ちなみに大阪城の淀君を寒胆させた巨砲「国崩し」も鍛造であり、鄭成功も北伐まではこの鍛造砲を愛用し、その優秀性をと敵味方から賞賛されていた。

そして北伐後には、より一段と優れた特殊鋼製の大砲に切り替えたのだが、この陸地での砲撃戦まで、オランダ軍はそれを知る由は無かった。(海戦においては、波浪のため新砲はそれほど効果を発揮しなかった)。

鄭軍はゼランジャ城西側から大員までぐるりと、30門の新式大砲を配置し、午前9時30分、一斉射撃を始めた。

昼までに千発を放つと、城の外にあった防御施設は全壊し、城内の兵士の多くも倒れた。これに慌ててCoyettは防御施設内の兵士を城内に撤収させた。

その隙を狙って、鄭軍は防御施設まで接近し、なおも城に向けて砲撃し続け、午後6時に至ってようやく大砲は沈黙した。

結局その日は計2千5百発を放ち、城並びに周辺の防御施設は徹底的に破壊された。仮に援軍がやってきても、これでは勝てないと悟ったオランダ側は、降伏に傾くことになる。

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2008年08月29日

49) 台湾占領20(台湾攻略10)

このCaeuwの包囲網突破作戦に、鄭成功は驚いたが、これは最後の足掻きとも言うべきであって、総じてみれば敵軍は陸海とも敗退し、最早打って出る兵力はないと考え直し、包囲網を堅持せよと、兵士に命じた。

一方、鄭成功はプロビンシャ城で捕えた伝道師HambroekとOsseweyerを特使として派遣し、Coyettに投降するように説得したが、Coyettは説得を受け入れず、降伏を拒否した。

もっともCoyettも手をこまねいていた訳でなく、11月6日、新しい提案を城内の評議会に出した。それはCaeuwが一部の艦隊を率き連れて清朝と協力し、新しい戦場を開くという提案であった。

評議会はこれに賛同し、戦艦二隻と小船二隻を派遣し、清軍と協同して、金門・アモイの鄭軍拠点を攻撃する許可を出した。そうすれば台湾の鄭軍は撤退するであろうとの狙いである。

またこの計画には、200名ほどの婦女子を脱出させる、という計画も含まれていたが、Caeuwはこれを承諾し、12月3日の夜半、夜陰に乗じて密かに外海へ脱出した。

艦隊は澎湖群島まで航行し、婦女子らを乗せた二隻は続けてバタビアに向けて南下した。

一方、戦闘艦隊は舳先を西北に向けて一路福州に向かったが、途中、艦隊司令Caeuwは絶えず目の前に現れてくる鄭軍との戦闘に翻弄され続けた。

それに加え、ゼーランジャ城での海戦−放火船の恐ろしさや、残酷な殺戮ぶり−を思い出し、遂に恐怖のあまり、バタビアへ向けて戦線を離脱した。
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2008年08月27日

48) 台湾占領19(台湾攻略9)

さてバタビア総督はMaria号の報告に驚き、連絡艦隊を呼び戻そうとしたが叶わず、仕方なく増強艦隊を派遣することにした。

12日間検討した末、数々の海戦で名を轟かせたJacob Caeuwを艦隊司令に任命し、旗艦den Dolphijnを先頭に戦艦九隻、兵員725名を載せ、糧食8ヶ月を用意して、緊急出動した。航海の途中でさらに2隻が加わり、計11隻の大艦隊が大員外海に殺到する。

8月12日(鄭水軍がオランダ軍を攻撃した日から数えて108日目)、両艦隊はゼランジャ城の外海で交戦し、Coyettも城上から応援砲撃を行った。だが鄭水軍の大船の砲撃は凄まじい上、小船は無数と言えるほどの多さであり、死を恐れぬ例の放火敢闘突撃には、オランダ船は防ぎようが無い有様。

黄色人種を常に軽視してきた司令・Caeuwには連続の驚きであった。

オランダ船は一隻また一隻と撃沈され、または焼かれ、残りは城付近の海に近づき、城砲の援護下に潜んだ。

焼かれた船の兵士は海岸に上陸したが、ほとんどは鄭陸軍に殲滅されてしまう。

Caeuwは城砲の支援下で、残存艦隊を海に残し、少数の兵を率いて上陸。密かにゼーランジャ城に入り、Coyettと会談した。

Caeuwは城内にて死守するよりも、打って出るべきと主張し、会談を切り上げて自艦に戻った。

そして艦隊の一部を残し、まず澎湖群島に攻め入って、羊、牛、豚等の糧食を奪い、さらに9月16日には鄭水軍の不備を突いて激しく交戦し、今度は堂々とゼランジャ城に入港し、700名の兵士、船内の武器弾薬、食料を城内に運び入れた。

これによって城内の士気も、かなり持ち直したのである。
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2008年08月25日

47) 台湾占領18(台湾攻略8)

一方、オランダの増援艦隊はどうなったかと言うと、バタビアに無事帰還はしたが、艦隊司令の徳蘭の精神は無事というわけには行かなかった。

そしてバタビア総督Jan Maetsuykerに台湾総督Coyettの悪口をさんざんに訴えた。折角遠路はるばる救援に駆けつけたのに、「応援は必要ない」と言われ、怒り心頭に達していた模様である。

その話にバタビア総督も不満を感じ、早速Coyettを更迭し、可蘭克を台湾総督に任命した。彼を乗せた連絡艦隊は6月22日にバタビアを出発する。

だが連絡艦隊が出発した2日後、Maria号が辿りつき、ここで漸くバタビア側は台湾艦隊の全滅を知ることになる。Maria号乗組員が伝える鄭軍の攻撃の凄まじさに、バタビア総督は舌を巻き、連絡艦隊を呼び戻そうとしたが、時すでに遅し、艦隊はすでに出発した後だった。

一方、連絡艦隊は大員外海に差し掛かると、海上一面は敵艦隊に埋め尽くされ、入る隙間も無いほどであった。その中を突進してCoyettと合流するのは無謀、と判断した可蘭克は、北へ方向を転じて長崎に向かった。そして暫く滞在し、年の暮れ頃にバタビアへの帰途についた。

当時、オランダは長崎の出島に居留地を与えられており、そこから長崎市内に出ることは許されなかったが、貿易・寄港は自由であった。

この厚遇の原因は、一つには島原の乱のおり、幕府軍に協力して、オランダ船が砲撃に参加したからだと言われている。
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2008年08月23日

46) 台湾占領17(台湾攻略7)

ゼーランジャ城を巡る攻防が小休止になった今、少し時間を割いて、4月末に起きた海戦の顛末を紹介しよう。

幸運にも敗戦を逃げ延びたMaria号とGravenlaande号のうち、Maria号は外海で5日間停泊し、次の指令を待ったが、一向に音信は無かった。そのため守備隊は全滅か降参したものとし、鄭軍来襲を逸早くバタビアに報告せんと、独自の判断で南下を開始した。

この船は小さく、大洋を航行するには転覆の危険があるため、ルソン、ボルネオの沿海に沿って航行し、50日かけて、ようやくバタビアに着いたのは6月24日のことであった。

一方G号は逆に北上し、スペインから奪い取った台湾北部の植民地・淡水、鶏籠(現・基隆)に投錨し、別の戦艦Vink号、銀面号など三隻と合流して、再び大員(台南)へ向かって南下した。

5月15日に大員の港近辺で鄭水軍と交戦し、銀面号は被弾着火後、岸壁と衝突して沈没。その他の戦艦も苦戦虚しく敗れ、北へ逃れた。

そして再び鶏籠に戻って、現地のオランダ人達と討論し、弾薬食料の不足、原住民の反抗、強大な鄭軍という諸問題を鑑み、長期に渡って台湾北部に駐留するのは難しいとの結論を出した。

そこでオランダ残存勢力及び、数百の民間人は数隻の船舶に乗り、6月19日鶏籠を出港した。目的地は日本で、7月5日長崎は出島に到着した。
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