2008年06月13日

4)鉄人部隊の創設

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その席上で、耳目をひく一つの報告があった。去年の護国嶺の戦役で、鄭軍は正三旗の筆頭武将・河格商(満人)を倒したのだが、彼の身につけていた鎧や兜等を点検すると、驚いたことに全身のほとんどが鉄で纏われていたと言う。

この報に接した成功も、「自分が幼児時に見た日本の武士達も、鉄で纏われた重装備の騎士は、勇猛果敢に見えた」という話を紹介して、「我が軍でも、このような鉄に纏われた『鉄人部隊』を創設したら、清軍の重装騎馬部隊に対抗できるかもしれない」、と提案した。

しかし言うは易く、行う難し、騎兵が鉄の鎧をまとうことができるのは、馬に跨って自分は動く必要はないからである。騎兵と同様に30斤(=20キロ弱)もある鉄の重装備を、一人の兵士に架せられて作戦行動を取るのは到底無理と、諸将は異論を唱えた。

だが、鄭軍きっての勇将・甘W(後の北伐・総司令官)が次のような提案をした。「兵士に平素から両
足腿にそれなりの重さの砂袋を縛り付けて訓練して、慣れさせたらどうか」。この発言に鄭成功もなるほどと思い、早速実行に移した。

鉄面を被り、鉄衣を纏った鉄人部隊を最初は5千人組織し、訓練させてみると、思いのほかうまく行ったので、後には一万人規模に拡大した。徴募した兵員の中には、日本からの浪人も混じっていたという。

(上の画像はオランダ国立図書館収蔵のものだが、後に鄭軍と対立したオランダは、鉄人部隊の画像を多数残した。)


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3)清軍との対立

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時は、清軍が呉三桂の引導で山海関から入関し、中国本土に乱入、至る所敵なしの絶頂期である。

清軍は出身部族をもとに四旗に分かれ、各旗はそれぞれ正、[金+襄]の二つがあったので、一般には「八旗」と呼ばれる八部隊に分かれてい
た。初期の頃は満人のみの組織であったが、後に投降した漢人からなる「漢八旗」を設立して、兵力の不足を補っていた。

占領地区が拡大につれて、緑営(清の入関以前に帰属した漢人の部隊)や雑兵集団も加わったが、特に先遣攻撃部隊である、満人の正三旗 ― 正黄、正紅、正白旗の騎馬部隊 ― は極めて獰猛・勇敢、精鋭中の精鋭と言われ、給金も一般の部隊よりも極めて高かったし、運送、武器等の装備も特別に補強されていた。

また機動力も優れているので、迅速に目的地に急行して敵を蹴散らして殲滅する。鄭軍はこれをどうすることも出来ず、大変恐れていた。元来が海賊でしかない鄭軍は烏合の衆で、清軍に連戦連敗、各個撃破される所だったのである。

特に鄭芝龍が下ったあと、頭目を失った鄭軍は各部隊が勝手な行動をとる有様で、軍隊としての呈をなしていなかった。だが、幸いにして鄭成功の帰郷で鄭軍は指揮系統が一本化され、次第に戦力が強化されることになる。

成功は万暦帝の孫である朱由榔をかついで永歴帝とし、これを奉じて抗戦を続け、1658年には念願の北伐軍を組織するまでなったが、そこには大きな懸念があった。

それは鄭軍には、漢、満八旗に対抗するだけの戦力はもちろん無かったし、歴戦の雄である清朝の近衛部隊=正三旗には、同兵力でも敵わないと言うことであった。

なるほど、鄭軍は小規模なゲリラ的戦闘や、海戦ではたびたび勝利をおさめた。だが本格的な陸戦では正三旗には敵しえず、散々苦杯を舐めさせられていたのである。

そこで鄭成功は1658年3月、思明で(廈門(アモイ)の郊外の地。「明」朝を「思」って名づけた地名である)、諸将を集めて軍議を開き、方策を練ることにした。


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2)混乱の時代

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福松(鄭成功)は1644年に成人するが、この年、李自成が北京の崇禎帝を自殺させ、明朝は滅亡。その李自成も清軍に滅ぼされるという、混沌と混乱の時代が幕を開けた。

この混乱に乗じ、鄭芝龍は唐王・朱聿鍵を擁立。隆武帝として政権を開き、清軍と対立することになる。

そして息子を隆武帝に拝謁させるが、帝は福松の偉丈な風貌に驚き、彼の背中を擦すりながら、「惜無一女配卿、卿当尽忠吾家、無相忘也」(=朕に娘がいればお前に娶らせるのだが、残念だ。我が家のために忠誠を尽くしてくれ、お互い忘れまいぞ)と言って珍重した。

そして45年には明皇帝の姓である「朱」と、名「成功」を授かり、征討大将軍印と尚方寶剣を賜った。後の人が、彼のことを「鄭成功」、「国姓爺(Koxinga:クォシンヤ)」と呼ぶようになった所以である。

しかしその後、鄭家をたて続けに不運が襲うことになる。まず,鄭氏授封の翌46年、隆武帝は北伐を敢行するも大敗し、隆武帝自身も殺される。

これを見た鄭芝龍は清朝に投降する決意を固めるが、息子はこれに苦諫。清は投降者を冷遇すると反対したのだが、父は聞く耳をもたずに投降した。根っからの商人である父には明朝への忠誠心は乏しく、利が清朝にあると見るや、さっさと旗色を変えたのである。

この父とは逆に、成功は反清の志を固めた。

それには、母の死が絡んでいた。その年の暮れ、母は福州にいたが、市街に乱入して来た清軍に強姦され自殺したという。消息を聞いた成功は憤怒の末、抗清復明を誓い、故郷の福建に戻り、廈門を根拠地として、徹底抗戦の準備を始めたのである。


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