2008年06月13日

3)清軍との対立

前回へ


時は、清軍が呉三桂の引導で山海関から入関し、中国本土に乱入、至る所敵なしの絶頂期である。

清軍は出身部族をもとに四旗に分かれ、各旗はそれぞれ正、[金+襄]の二つがあったので、一般には「八旗」と呼ばれる八部隊に分かれてい
た。初期の頃は満人のみの組織であったが、後に投降した漢人からなる「漢八旗」を設立して、兵力の不足を補っていた。

占領地区が拡大につれて、緑営(清の入関以前に帰属した漢人の部隊)や雑兵集団も加わったが、特に先遣攻撃部隊である、満人の正三旗 ― 正黄、正紅、正白旗の騎馬部隊 ― は極めて獰猛・勇敢、精鋭中の精鋭と言われ、給金も一般の部隊よりも極めて高かったし、運送、武器等の装備も特別に補強されていた。

また機動力も優れているので、迅速に目的地に急行して敵を蹴散らして殲滅する。鄭軍はこれをどうすることも出来ず、大変恐れていた。元来が海賊でしかない鄭軍は烏合の衆で、清軍に連戦連敗、各個撃破される所だったのである。

特に鄭芝龍が下ったあと、頭目を失った鄭軍は各部隊が勝手な行動をとる有様で、軍隊としての呈をなしていなかった。だが、幸いにして鄭成功の帰郷で鄭軍は指揮系統が一本化され、次第に戦力が強化されることになる。

成功は万暦帝の孫である朱由榔をかついで永歴帝とし、これを奉じて抗戦を続け、1658年には念願の北伐軍を組織するまでなったが、そこには大きな懸念があった。

それは鄭軍には、漢、満八旗に対抗するだけの戦力はもちろん無かったし、歴戦の雄である清朝の近衛部隊=正三旗には、同兵力でも敵わないと言うことであった。

なるほど、鄭軍は小規模なゲリラ的戦闘や、海戦ではたびたび勝利をおさめた。だが本格的な陸戦では正三旗には敵しえず、散々苦杯を舐めさせられていたのである。

そこで鄭成功は1658年3月、思明で(廈門(アモイ)の郊外の地。「明」朝を「思」って名づけた地名である)、諸将を集めて軍議を開き、方策を練ることにした。


次回へ
posted by leprechaun at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 鄭成功 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。